12月19日 に掲載された記事

 阪神・淡路大震災で亡くなった人たちの名前が刻まれる「慰霊と復興のモニュメント」。18日、新たに銘板を加えた遺族の中に、熊本県から駆けつけた母の姿があった。長女は古里を離れ、芦屋市内で社会人として一歩を踏み出したばかりだった。「どうして」。自分を責め、娘を奪った土地に近寄れなかった。17年‐。歳月が少しずつ前を向かせた。「娘が生きた証しができた。あの子も喜んでいるんじゃないかな」。母は涙をふいて語った。


▲長女の銘板を手に、あの日からの歳月を思う吉田勝代さん=18日午後、神戸市中央区加納町6、東遊園地(撮影・大山伸一郎)
 
 吉田美穂さん=当時(23)=は、芦屋市津知町の2階建て文化住宅で地震に遭った。翌日、母勝代さん(66)が熊本県八代市から駆けつけると、近くの学校に安置されていた。毛布にくるまれ、髪は泥だらけ。「どうして死ななきゃならないの」
 
 広島県内の大学を卒業し、介護福祉施設に就職して1年目。勝代さんは一緒に木造の物件を選んだ自分を責めた。生きることさえ嫌になった。四十九日の法要を最後に、被災地から遠ざかった。
 
 「死は誰にでも起こりうる」。知人の住職から仏教の教えを聞き、徐々に落ち着けるようになった。こうも思えるようになった。「あの子は私の心の中に生きている」
 
 数年前、神戸を訪れた友人から「モニュメントに娘さんの名前がない」と聞いた。役所に問い合わせると、今からでも申し込めるという。「行ってみようかな」。今年1月、銘板を申し込み、16年ぶりに芦屋市にも足を運んだ。文化住宅の跡地には新しい建物があった。
 
 それから11カ月。娘の名前が彫られた銘板を手にした。思い出がよみがえる。震災の年の正月、帰省して得意げに言った。「さだまさしのチケット、一番前で取っとるけん」。勝代さんは歌手さだまさしさんの大ファン。神戸のコンサート会場で、母娘で見る約束はかなわなかった。「親思いで、怒った顔は見たことない。親よりできた子だった」。今も誇りに思う。
 
 銘板を張り終えると、少しだけ心が軽くなった。「うれしかった。お墓だけではなぜ亡くなったか、分からなかったから」。これからは時折、神戸を訪れてみようと思っている。(上田勇紀)

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