1月 9日 に掲載された記事

 阪神・淡路大震災で母親=当時(25)=を亡くした神戸市外国語大2年、中埜翔太さん(20)=同市東灘区=が9日、成人式を迎える。震災直後に引き取られた祖母と二人三脚で歩んだ約17年間。今では、東日本大震災で同じ境遇になった遺児の支援に携わる。亡き母に成長を報告するとともに、祖母に感謝の気持ちを伝えたい。

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▲成人式を迎える中埜翔太さん(手前)と祖母の照子さん。照子さんは、翔太さんの大好物の水炊きを作って祝うという=神戸市東灘区本庄町1、あしなが育英会・神戸レインボーハウス(撮影・笠原次郎)


 阪神・淡路大震災で母親=当時(25)=を亡くした神戸市外国語大2年、中埜翔太さん(20)=同市東灘区=が9日、成人式を迎える。震災直後に引き取られた祖母と二人三脚で歩んだ約17年間。今では、東日本大震災で同じ境遇になった遺児の支援に携わる。亡き母に成長を報告するとともに、祖母に感謝の気持ちを伝えたい。


 翔太さんは3歳の時、同市灘区の母方の祖母宅で被災。台所にいた翔太さんを守ろうとした母は冷蔵庫の下敷きになり、亡くなった。翔太さんも生き埋めになり、数時間後、仕事から戻ってきた父に助け出された。


 仕事で多忙な父に代わり、父方の祖母で、同市東灘区で暮らす中埜照子さん(67)が、翔太さんを引き取った。


 照子さんは調理人として働いていた大学を辞め、早くに亡くした夫の遺族年金と貯蓄で生活をつないだ。「さみしい思いをさせないよう大事に育てた。つらくなるから、母親のことを考える時間をつくらせないようにした」。車で城崎温泉や淡路島へ連れて行った。自転車の後ろに乗せて歌を歌ってあげた。風呂も一緒に入った。ぜんそくだった翔太さんを一晩中看病したこともあった。


 母の記憶がない翔太さんは、照子さんを実の母のように思って育った。同情されたくなくて、学校では震災のことは話さなかった。同じ境遇の遺児を支援する「あしなが育英会」の仲間と出会い、気持ちを打ち明けられる場ができた。同会から中国・四川、ハイチの大地震の被災地に派遣され、遺児らと交流した。


 昨年3月の東日本大震災。「これまでの恩返しがしたい」。東北の被災地へ何度も派遣され、遺児の心のケアを続ける。被災女性から「阪神・淡路から17年で、こんなに大きくなって」と泣かれた。今まで「母を亡くしてかわいそう」という目で見られてきたが、東日本では「希望」と映ったことがうれしかった。


 昨年7月。20歳の誕生日は照子さんとケーキを囲んだ。「おばあちゃん、ありがとう」。感謝の言葉を伝えた。将来は海外とつながりのある仕事に就きたい。


 9日の成人式は、神戸市の式典に友達と出席する。「おばあちゃん孝行するから、病気しないでね」と照子さんに笑いかける。亡き母には「今、東北の子たちに恩返ししてるよ。命を奪う震災は悲しいことだけど、寄り添って一生付き合える友達もできた。悪いことばかりじゃない」と伝えるつもりだ。(斉藤絵美)

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