1月18日 に掲載された記事

 阪神・淡路大震災から17年がたった。被災地は17日、ろうそくの灯(あか)りを取り囲むように、深い祈りに包まれた。目を閉じると、いつでも「あの日」に戻るけれど、踏み出す一歩は未来へとつながる。夫を亡くした神戸の女性は、同じ悲しみを抱える東北の女性を支えようと誓う。祈りは阪神・淡路から東日本へ。絆のリレーをつなごう。次世代へ語り継ごう。亡き人を、傷ついた街を心に刻みながら。

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▲夫を亡くし、子育てに奔走する母親たちと竹灯籠を囲む辻広美さん(前列右)=17日午後、神戸市中央区加納町6、東遊園地(撮影・笠原次郎)


 阪神・淡路大震災から17年がたった。被災地は17日、ろうそくの灯(あか)りを取り囲むように、深い祈りに包まれた。目を閉じると、いつでも「あの日」に戻るけれど、踏み出す一歩は未来へとつながる。夫を亡くした神戸の女性は、同じ悲しみを抱える東北の女性を支えようと誓う。祈りは阪神・淡路から東日本へ。絆のリレーをつなごう。次世代へ語り継ごう。亡き人を、傷ついた街を心に刻みながら。


 阪神・淡路大震災で夫の寛士(ひろし)さん=当時(30)=を亡くした神戸市垂水区の辻広美さん(49)は17日夕、同じ境遇の母親3人と今年も神戸・三宮の東遊園地を訪れた。家族を亡くした失意と震災の後遺症を抱えながら、生活のために働き、育て上げた子は今春から大学に進む。「今年も来たよ。東北で同じ痛みに苦しむ人たちを支えたい」。夫にそう報告した。


 震災で神戸市長田区若松町の自宅が全壊。1階で寝ていた辻さん夫婦と、当時1歳5カ月だった長男の健太さん(18)は生き埋めになり、約6時間後に救出されたが、寛士さんだけが亡くなった。


 広美さんは両脚が長時間がれきに挟まれていたため、健太さんと病院へ運ばれた。「夢か現実なのか分からなかった」。家も、夫も失い、生きる気力が無くなった。でも、走れるようになって元気にはしゃぐ健太さんの姿を見ると、「この子が頼れるのは私しかいない。この子のために生きていかないと」と思うようになった。


 約2カ月の入院後、仮設住宅に申し込み、子育てに奮闘した。結婚を機に仕事を辞めたが、健太さんが4歳になると復職し、神戸市内の百貨店で働くようになった。震災の後遺症で両脚のしびれが取れず、足を引きずりながら、家事と仕事に明け暮れた。


 心の支えになったのは、遺児を支援する「あしなが育英会・神戸レインボーハウス」の職員や、そこで知り合った同じ境遇の母親たちだった。生き埋めになった恐怖からか、夜に泣きわめく健太さんに、あしながの職員は「当たり前の行動だから大丈夫」と助言してくれた。夫を亡くした人とは、仕事の苦労や夫の親族との付き合い、子どもの進学など、何でも話せた。多くを語らなくても分かってくれた。


 健太さんは昨年末、学校推薦で志望校の関西学院大に合格した。広美さんは「一つの節目。やっと親の責任をクリアできたかな」と相好を崩す。


 東日本大震災では、あしながの活動で健太さんは被災地を訪れ、東北の子どもらと交流した。その姿に「私にもできることがあるのでは」と考えるようになった。


 歩み続けた17年。同じような思いに悩む人々の心のケアに役立ちたい。そう願いながら、仲間と竹灯籠の明かりを見つめた。(斉藤絵美)

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