2012.01.16

 阪神・淡路と東日本。2つの大震災を経て、「あなたの何が変わりましたか?」と呼び掛けたところ、多くのメールが寄せられました。一部の方には、神戸新聞社会部の記者が取材させていただき、朝刊社会面の連載『また来る春に~二つの大震災 私たちは』(1月1日から計9回)で紹介させていただきました。寄せられたメールの一部を紹介します。多数の投稿、ありがとうございました。

 阪神・淡路大震災の時、中学三年生でした。住んでいた加西市は震度4でしたが、今でもあの揺れをはっきり覚えています。神戸に寝袋や衣類を送りました。
 今、2児の母になりました。今回、東日本大震災の映像を何度も見て、1人でも多くの方の無事を願いました。子どもたちが募金のために自分の財布からお金を出しときは、はうれしくて涙が出ました。家族の大切さ、当たり前の幸せを大切にしたいと思います。


 阪神・淡路大震災で家がつぶれ、職場のビルが倒壊、会社は倒産しましたが、当時は何の支援もありませんでした。3月11日の地震の様子をテレビで見て、いてもたってもいられなくて募金活動をしたり、チャリティーグッズを購入したり、友人に物資を送ったり、とできる範囲で活動しています。うちみたいに震災難民にならないように。
 宮城・岩手にも行ってきました。想像を絶するものでした。線路も屋根もなくホームの残骸だけが残る駅。被災して柱だけになった店舗の前で冷蔵車で営業していたコンビニ。幸い友人たちは無事でしたが、胸が痛みました。1日も早い復興を心よりお祈りするばかりです。

 阪神・淡路大震災のとき、我が家に大した被害はありませんでした。にも関わらず、友人ら多くの皆様から、ペットボトルの水、非常食、ガスボンベほか支援物資、そしてお見舞い状が届きました。このような温かい心づかいに感極まり涙するとともに、なんとも言えぬ心情を体験する事になりました。この時の感動は、今も心に強く残り、各地の災害には強い感心を持って、私が支援を受けた時の気持ちを忘れずに対応しております。人との出会いも大切に生きております。

 震災について話しだしたらきりがありません。17年たっていてもテレビで地震速報が鳴ると、また神戸も揺れるのではないかと心配になります。
私は今39歳で、震災当時は22歳。結婚し、神戸市中央区の今の住居に住んでいました。震災で知人が亡くなりましたが、身内は全員無事でした。でも、主人の会社が液状化のために滋賀に行ったりして大変でした。
 17年がたち、子供も16歳と13歳。今回の東北の地震で、子供たちが多数犠牲になり、本当に胸が痛む思いです。震災を経験してるからこそ子供たちの恐怖を感じます。学校でも生徒を中心に募金活動や手紙を書いたりしています。私自身も家族と過ごす時間に地震について話すことが多くなりました。学校からも「もし震災がおきたら、子供をどこに避難させるか?」というプリントもきました。子供たちと話し合いをしました。離れているときほど、不安は増しますが、話し合ったことを冷静に思いだし行動出来るように、常日頃から声をかけるようになりました。持病もあるので、ある程度必要なものをまとめ、意識するしかないと思います。
 地域の方とも、声をかけあい、何かあったときに身近な者同志、支え合えるように、より一層地域の行事にも顔を出すようにしています。

 阪神・淡路大震災の時は、神戸市長田区の病院に勤務していて、毎日、地域での支援活動に明け暮れていました。全国からの支援者の受け入れ、支援者と一緒に仮設住宅で物資を配布するなど、毎日が早く過ぎて行きました。家族の事を考える時間もなかったように思います。二度と震災は起きてほしくないと心から思います。この時から、平凡に流れる時間の大切さ、家族の大切さを知りました。毎日三度の食事ができ、家族が笑顔で暮らせていたらそれ以上は望みません。みんなが笑顔で暮らせる日本、世界であってほしいですね。

 1・17は、神戸市長田区で被災しました。当時は、小さい子供が2人おり、ライフラインが途絶えて、生活するのが大変でした。実家の大阪に避難したのですが、大阪ではまるで震災などなかったかのような普通の生活で、違和感を覚えたものです。
今回の東日本の地震では、被災地が遠くて、今度はこちらが普通の生活をつづける側になり、被災の様子をTVや新聞でつぶさに見る機会が多かったです。被災者は渦中にいるので、被害の全貌が意外にわからないものです。
 春から、少し変わりました。いままで同窓会に参加したことがなかったのですが、今年は各種の同窓会に全部出席しました。会えるときには、友達に会っておきたい。みんなの笑顔を見たい。
 小学校のときの親友に再会しました。30年以上音信不通でした。これからはいつでも連絡がとれる、それがうれしくてなりません。
 いろんなことに積極的になりました。1日1日を大切に、楽しく過ごしたいと思っています。神戸の地震の後、物なんかいっぱいあっても仕方ない、命が一番大切だと思ったものですが、今回は人と人とのつながりの大切さに気づいたのでした。

 17年前、阪神大震災を体験して、もう2度と地震はイヤだと思い、日本、いえ世界中のどこにも地震が起こりませんように、と祈っていましたが、人間のおごりに自然が怒ったのでしょうか。阪神大震災より、ひどい津波、原発の三重苦。自然の脅威に人間の無力さを改めて感じました。
 主人は兵庫県主催のボランティアに参加しています。私は、募金をしたり、東北の物産を買ったり、それぞれ出来ることをしています。喉元過ぎれば熱さ忘れるで、当たり前の生活に感謝することを忘れて、愚痴や文句ばっかり言う。1・17と3・11は、そんな愚かな私達を戒めてくれる日になると思います。

 17年前の震災のときは、子供が2歳で、テレビで見た神戸の恐ろしい光景がまだ頭に残ってます。主人は復興のために単身赴任しました。忙しい毎日で過労死するかも、と思うぐらい休みなく働いてました。
 今、子供は大学生です。17年間いろいろありました。病気もしましたが、今は元気で夢を叶えるため、頑張ってます。3月11日は大学に行くため、豊岡市から大阪に引っ越しの日でした。大阪のマンションのテレビで津波を見ていて、一人でも多くの人が助かりますようにと願うばかりでした。今思うことは、1日1日を大切に生きることです。

 私は今年9月に大台の古稀を無事に迎えた男性ですが、阪神・淡路大震災時に大切な命を失うところでした。地震発生時は就寝中でたんすが倒れてきたのです。幸いベッドがたんすを支えてくれて難を逃れました。
 災難は忘れたころにやって来る、と言いますが今年は東日本です。やり切れない気持ちです。今回の大震災の大惨事をみるにつけ、改めて決心しました。生きていられる事を大切にしようと・・・・。日々を大切に、感謝の気持ちで、出来ることは即実行で、楽しく、明るく、笑って生きることを実践しています。

 平凡でも真面目が一番と、日々を暮らしていた私に二つの震災は何気なく暮らしていた私に大きなことを気づかせてくれました。私に出来ること、人に喜んでいただけることを実践する、まず身近なことから始めたい思いに駆られました。地域の皆さんと、趣味のサークルの皆さんと、自分の住む町の行事に今までよりも熱心に取り組むようになりました。毎日力強く生きたい、そんな願望が生まれその思いに後押しされています。

 17年前の「阪神・淡路」は働いていたので日々の生活に追われて自分を省みる余裕はありませんでした。定年後は自分にできるボランテイアをしたいと考え、実行しています。今回の「東日本大地震」は、人間の無力を知り、同時に人間の絆の大切さとそれでも頑張る強さを知りました。自信をなくしかけた日本人が、日本を見直すきっかけになったと思います。

 東日本大震災では、津波の被害が多く、励ましの言葉を伝えようとしましたが、阪神・淡路大震災を経験し、「がんばってください」の一言を伝えることが出来ませんでした。「がんばる」とは何を頑張るのだろう・・・。そう思うと、募金をすることで少しでも役に立てたらと思い、祈るように募金をしました。何も出来ないかもしれませんが、過ぎていく時間、日々を、一歩ずつ歩いていってもらえたらと思いました。

 私は、会社の転勤で3年前から神戸・元町に暮らし始めました。1・17は東京で、3・11は神戸でその日を迎えました。従って、二つの震災とも、実感として経験しておりません。神戸に暮らし始め、1・17の事実、復興などを身近で感じることが出来ました。また、震災を経験したから神戸の人々は団結力が強く、フレンドリーであると、実感しております。
 いずれ東京に戻ることになるかと思いますが、戻った後、3・11の事を身近に感じるのではないかと思っています。自分に出来る事は、わずかな義援金を送ることしか出来ませんが、大きな事件、不幸があっても、前向きに進むこと、人々の応援の暖かさなどを今、感じています。

 震災によって、生きることの大変さを知りました。命がこんなにも尊いものであることに気付きました。人間の温かさを痛感しました。一人では不可能なことも人数が集まり、力を合わせれば可能になります。人間は人間を救うことができます。食べ物に感謝するようになりました。ささやかな物や作ってくれた人にお礼の気持ちを持ちます。
 節電は、現在も継続しています。家族が一戸建てで平和に暮らしていることがありがたいです。でも、私達は、再びいつ起きるかわからない地震に備えなければなりません。自然災害は、突然に訪れるものです。物質的、精神的な準備をしておかなければなりません。私たちは、震災によって新しく生まれ変わるのかもしれません。

 大学を卒業してちょうど10年目の今年の春、この未曽有の災害が起こりました。私は10年の歳月、大きな一歩も踏み出さないまま時間が過ぎましたが、東北の多くの人たちの犠牲になった命と、これから乗り越えようとしている人たち、それを支える人たちの姿を通して、生きるということと、生きる力をはぐくむ教育について初めて深く考えさせられました。
 今の自分にできることは、手を抜いた自分の生き方を反省して自分を生きること、また生きていることと、自分を支えてくれている人に感謝の気持ちを忘れないことです。未熟な自分に役に立つことがあれば、東北の方たちと何らかのとつながりを持てるような活動を始めることです。とりとめなく自分の思いをつづらせていただきましたが、被災された東北の方々の笑顔が少しずつ増えていくことを祈っています。

 阪神・淡路大震災の時には何かしたくてできるだけの募金だけで現地に行きたくても、こんなに近いのに現役中で仕事を持っていましたので、現地での支援は一度しか行けず歯がゆい思いをしました。そして今回仕事は辞めているものの、現地で何かしたいと思うも姑の世話があり動けません。まるでその気持ちを汲むかのように社会人三年目の息子が現地へ足を運んでくれてます。
 そして帰るたびに話を聞かせてくれ、体力ない年配者でも現地でできることがあること、現地に行かなくてもできる支援、そして何より現地で踏ん張っておられる人のことやその方達とのつながり、支援に来ている人とのつながりの自分への支えや感謝を痛感しているようです。
 自然の力の計り知れない怖さを感じながらも人は、どんな環境の中においても人により支えられ生きていけるんだと息子からも学び、改めて人とのつながりの大切さを感じています。
 仕事を早期退職した今、こんなにか何かできないかと思いながら、夫がいて手のかかる姑がいてと家庭があることもネックになり、気になりながら何もせず、時間だけが過ぎ気持ちが薄れている自分に、現地の人を思う度腹立たしさを感じています。

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