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震災は今も鮮明ですか

阪神・淡路大震災から
2014年1月17日で
19年になります。
もう19年でしょうか。
まだ19年でしょうか。
19年という年月について
皆さんは何を思いますか。

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ありがとうございました

神戸新聞社会部ウェブ編集室が期間限定で展開してきました「震災19年ブログ」。この記事をもって、ひとまず終了とさせていただきます。

読んでくださった皆さん、思いを投稿してくださった皆さん、あらためてありがとうございました。震災19年ブログ自体の記事更新はありませんが、フェイスブックの「神戸新聞震災アーカイブ」(https://www.facebook.com/shinsaiarchive)では、阪神・淡路大震災の写真を毎日アップしています。引き続きアクセスしていただければ幸いです。

来年1月17日、阪神・淡路大震災の発生から20年になります。20年のブログに向けて、ご意見・ご要望などございましたら、メール(webhensyu@kobe-np.co.jp)でお気軽にお寄せください。


*写真は、震災をテーマにした歌劇のワンシーンです

罪の意識

1月31日の記事「心のしんどさを認めること」で、「思いを書き始めてみませんか」とつづったところ、〈あの朝から19年が経ち20年目に向かって歩く〉と題したメールをいただきました。以下に紹介します。

忘れない。忘れられない。でも生きて行かなければならない。思いと共に死ぬまで歩く。それが生き残った者の[義務]頑張って!と言われるのが嫌だったが今は好きな言葉になっている。笑う日が多くなっています。
    ■
神戸市東灘区の精神科医、松井律子さんからの受け売りの知識です。災害に遭って生き残った人は、亡くなった人に対して罪の意識を持ちやすいことは、ずっと前からいわれています。「被災の度合いが少ない」「生き延びた」「家族が亡くならなかった」「家が残った」など、罪の意識を持ってしまう条件は多々あります。「他人に比べて楽なのだ」と苦しかったことを口にせずにきた人たちの胸の内を、このブログであらためて垣間見ることができました。「震災を生き延びた人がいる限り、さまざまな心の問題が出てくるかもしれません」と松井さんは話します。
震災19年を過ぎ、来月11日は東日本大震災から3年の日です。被災地の現在や防災についてのニュースに触れることも多くなると思います。簡単には比べられませんが、阪神・淡路大震災からの19年間を知っている私たちは、東日本の人たちに何を伝え、話せるでしょうか。阪神・淡路の19年と合わせ、皆さんの思いをお聞かせください。

*写真は、大地震を想定し救助訓練に取り組む県警の機動隊員です。

心のしんどさを認めること

1月17日から2週間がたちました。メールで寄せられた声を紹介します。

〈19年が経過したのが早いのか遅いのかはわかりません。あの日の10時ごろ、実家のある長田まで垂水から自転車で向かいました。国道2号線、塩屋の跨線橋から飴細工のように曲がりくねったJRの線路を見まして、自然の力のすごさを目の当たりにしました。途中で戸板に乗せられた犠牲者、道路両側が火災のため通行ができなく迂回したこと。さらに消防自動車が妙法寺川にホースをたらしているが、水量が不足のため消火ができず、ただただ燃えるに任せていた情景など未だに忘れることはできない。
災害に備えることは頭ではわかっているが実行に移さないまま月日が経っている。〉
    ■
これまで声を寄せてくれた方の中には、〈身内に亡くなった人はいないのですが〉〈もっと大変な思いをした方は大勢いると思いますが〉などとためらいつつも〈思っていたことを書いてみました〉と投稿した方が何人もいらっしゃいました。文面から推測すると、震災当時10代とお見受けしました。皆さんが思いを表したのは何かきっかけがあったのでしょうか。

「受けた被害にもよりますが、幼くて震災という恐怖を上手く言語化できなかった世代は、最も恐怖に打ち震えた世代ともいえます」と神戸市東灘区の精神科医、松井律子さんから教わったことがあります。3年前の東日本大震災の発生から間もない時期、子どものころに阪神・淡路大震災を経験した大学生や20代前半の若者が、首都圏で激しい揺れにおびえ、気持ちが不安定になり帰郷して受診したケースが目立ったそうです。「阪神・淡路大震災の発生後、普通に登校し、進学や就職をしても、何年もしてから受診に至ることもあるのか」と松井さんは驚いたそうです。高齢になり孤独から体力や気力が低下し、震災の傷が露呈するケースもあれば、普通に成長したと思っていた若者がパニック発作を起こすケースも考えられます。「こうした人たちが、罪の意識なくつらさを言語化できれば、気持の整理がついたり、恐怖を克服できるのではないでしょうか」と松井さん。「自分のトラウマを認めて楽になったという方の投稿に、精神科医として考えさせられました」

きっかけはその人によってさまざまでしょうが、自分の中の「震災」を文章にして、他人に読んでもらう。それは自分の心のしんどさを認めることにもなるそうです。それは次に進むための大切なステップともいわれています。
胸の内を語っていただいた皆さん、本当にありがとうございました。そして「文字にしてみようかな」と思っている皆さん、思いを書き始めてみませんか。


*写真は、豊岡市の中学校で開かれた、阪神・淡路大震災の講演会です。被害の様子などが伝えられました。

「震災当時、私は生後1カ月でした」

なかなか更新できず、間が空いてしまいました。〈(震災)当時、私はまだ1カ月だった〉というメールで始まる女子大生から話をうかがいました。
神戸市灘区の西田怜奈さん(19)。震災時、住んでいたマンションは半壊。紙おむつやおしりふきを売っている店は近くになく、救援物資が頼りだったそうです。まだ首も座っていなかった西田さんがたくさんの人に支え、助けられたという話を、毎年1月17日が近づくと、両親はしてくれるそうです。そのためか、小学生のころから〈自分が生きているのは当たり前ではない〉と感じていたそうです。

大学生になった西田さんは、昨年2度にわたって、宮城県石巻市で傾聴ボランティア活動をしました。「神戸から来ました」。そう話すと、「ほんと、よー来たね」と迎えてくれます。一人暮らしで普段話し相手がいない人もいます。世間話が進むにつれ、「地震は人間関係まで壊した」と打ち明けるおばあさんがいました。避難所や仮設住宅で人間関係に苦しんだそうです。地震の前までは、道端で知り合いに会うと、楽しく立ち話ができたのに、もう近所は知らない人ばかり...。西田さんはひたすら彼女の話に耳を傾けました。大学で心理学を専攻している西田さんはボランティアに参加する前、大学の勉強を実践の場にいかせるのではと思ったそうです。「でも現実は教科書と全然違いました。実際は心理学も何も関係ありませんでした」と西田さんは話します。

さまざまな人から話を聴き、西田さんは〈ただ建物が建つのが復興じゃない。建物や街がもとのようにきれいになり、一見復興したように見えても、被災地の心の中の復興には時間がかかる〉とメールに書いてくれました。〈このことは阪神・淡路大震災にもつながると思う。今はすっかり美しい街並みの神戸だが、19年たった今も悲しみの傷がいえない人がいることを忘れてはいけない〉とも。「生まれて間もない私は被災した経験を伝えることはできませんが、両親や被災した人の経験を語り継ぐことはできると思います」と話す西田さんは、教員を目指しています。「親から聞かされたこと、東日本の被災地で経験したことを子どもたちに伝えたい」と語ってくれました。


*写真は、1月18日の神戸・東遊園地。追悼行事の竹筒文字の跡が見えます。

広島で震災を語るということ

淡路島出身の広島大学3年、稲山諒さんからメールをいただきました。
〈震災のとき私は2歳でした。正直、震災のことは覚えていません〉とあります。〈幼いころから震災のことをたくさん習いました。1月17日は震災の話を聞き、防災訓練をし、震災のことを考えるのが当たり前だと思っていました。しかし進学のため広島に来て、兵庫以外の出身の人に聞くと、1月17日にそうした行事はなかったとのことでした。阪神・淡路大震災についても、名前くらいしか知らない人がほとんどでした〉と書いています。文末は、〈阪神・淡路大震災について広島大学生に伝える活動をしています。15日、広島大学生にプレゼンをします。震災から19年。「なぜ伝えることが大事か?」を考えながら、これからも阪神・淡路大震災にかかわっていこうと思います。〉と結ばれていました。17日の数日後、稲山さんに連絡しました。

「東日本大震災の被災地でボランティアをして、伝えることの大切さを教わりました」と稲山さんは言います。昨年、仙台市内や亘理町の仮設住宅で清掃活動をしたときのこと。自己紹介で、出身が兵庫県の淡路島と告げると、たいていの人が阪神・淡路大震災に触れ、「家族は大丈夫だった?」「家は何ともなかった?」と気遣ってくれました。会話が進むにつれ、思いがけない悩みを打ち明けられたこともありました。最初は助け合っていたのにささいなことから近所とあつれきが生まれてしまった、今でも3月11日の出来事が夢に出てくる...。稲山さんは相槌を打つこともできません。ただ聞くことに徹しました。「報道される量は減っていますが、見えない問題がいっぱいあると知りました」
「私たちに何ができますか?」。稲山さんが尋ねると、多くの人は「この震災のことを広島でも伝えてほしい」と話したそうです。「もうこんな悲しいことが起きてほしくない」「親しい人の死を忘れないため」...理由はさまざまでした。

1月15日の学生への〈プレゼン〉はどうだったのでしょうか。大学の教室に集まってくれた35人ほどの学生に、稲山さんは発生時刻や犠牲者数などの質問を交えながら、人と防災未来センターで調べたことなどを話しました。〈地元のことを伝えたいという気持ちが伝わってきた〉〈心の復興は、阪神・淡路も東日本も共通すると分かった〉などの感想を残してくれ、伝えることに手ごたえを感じたそうです。稲山さんの卒業研究のテーマは「自然災害に対する防災」。「人の命を助けることができる学問だから」が理由です。「阪神・淡路大震災や東日本大震災の実例を踏まえ、ソフト面の防災を考えたいです」と語ってくれました。
稲山さん、勉強頑張ってください。そして、広島で一人でも多くの人に、阪神・淡路大震災と東日本大震災のことを話してください。


*写真は17日に芦屋・精道小であった追悼式です。献花台に花を手向けた児童が手を合わせました。

再び寄せられた声を

少し間が空いてしまいました。寄せられた皆さんからの声を紹介します。

9歳の誕生日でした。報道関係の仕事をしていた父はすぐに仕事へ。祖父母宅は全壊でしたが奇跡的にけが一つありませんでした。この経験から私は災害医療に興味を持ち、今は救命センターで看護師をしています。今度は誰かの力になれるように。この運命と共に生きていきます。(とろろ)
   ■
近隣の男性が、いつの間にか集まり、倒壊した建物に残された人たちの救助をしていた。倒壊した家屋には、私の親戚も生き埋めになっていた。今にも崩れそうな天井、斜めに傾いた建物に入って行く父を見る度に緊張が高まった。お昼が過ぎた頃、私たちの目の前の家屋から毛布に包まれる人が数名運び出されてきた。足は青白い。その方々が亡くなっていると知った時、恐怖で硬直してしまった。夕方、警察が来た。当時、学校の体育館に誘導された。避難所では新聞を配ったり、配給をした。そんな中、先生方が血相を変えて話す声が耳に入った。クラスメイトの訃報だった。控えめで、人見知りな彼女を思い出し、間違いであってほしいと思ったが、そうではなかった。数年で、瓦礫も撤去され、建築物は再建に向い街は整備されていった。今では観光客も戻り、街並みも整い、活気が出てきた。しかし、震災前とは違う。街が受けた被害は今でも経済やコミュニティーそして人の心に大きな影響を残している。本当に暮らしよい街へと前進することを願いうばかりである。
   ■
僕は神戸生まれで神戸で育ちました。震災当時は中学2年生でした。自宅は一部損壊ですみ、家族、友人とも無事でした。電気のない一週間はろうそくですごし、給水場へ水くみをして自宅マンションの5階までもっていくのは大変でした。家族や友人を亡くした方もおられる中、僕は「人」を亡くすことはなかったですが、いろいろな何かをなくしたように思います。家族や友人を亡くしていない自分が被災者なのかどうかわかりません。しかし、僕自身の体験を伝えることが「防災」や「減災」に役立つのならと思って、震災のことを伝えています。できることをできるだけ、少しずつでも伝え続けたいです。


*写真は、震災の犠牲者を悼み武庫川の河原に積まれた「生」です

書けなかった気持ち

17日のお昼過ぎに届いた1通のメール。神戸市東灘区で幼少を過ごしたという秋葉慎一郎さんからでした。〈今まで書きたくても書けなかった、忘れられない気持ちをお送りします〉とありました。

〈19年前、中学3年生。当日はマラソン大会。嫌やな~。そんな感じで寝ていました。マメ電が消えた。天井が落ちてきた。訳が分からないまま2、3時間埋もれた。叫んでも救助の人も気づいてくれなかった。ガラス障子のかけらが身体にまみれながらぼろぼろの中、親と屋根を突き破って外に出た。祖母や友達を失った。〉とその日のことを記しています。そして被災経験について〈忘れようと思って聞かない、感じない振りをしていた〉〈心臓がドキドキしておかしくなるし、頭がパニックになる感覚。でも、数年前から現実と向き合わないといけないと先には進めないと思った。〉とつづっています。そして〈あの幼少を過した街は帰ってこないし、風景もにおいも残ってない。つらかったことや楽しかった場所もない。あそこにあのCD屋さんや本屋さんあったなぁ。あの駄菓子屋さんもまた行きたいなぁ。そんなことをいつも考えています。〉としめくくられていました。

決して取り戻せない震災前の街を懐かしむ切ない文面。気になります。「なぜ今回投稿してくれたのですか?」。夕方、折り返しのメールが届きまし た。

〈なんで僕生きてるんかな、今友達生きてたらたまに一緒にお酒吞んだりできたんかなぁと思う気持ち、僕なんかよりもっともっとひどい状況がある し言葉にするなんておこがましいと思う気持ち、けど記さないと忘れてしまうかもしれない〉。いろいろな思いから投稿したとのこと。「なんでこんな気持ちが苦しいんかな」と自問自答した時期もあったそうです。自宅が全壊し、大阪の高校に通い、大阪の公団住宅で暮らし、神戸を離れていたせいでしょうか、〈神戸に恩返しできていない〉〈震災を忘れたい〉といった相反するような気持ちがないまぜになり、テレビで震災の話題を直視できなかったそうです。そうした期間を経て、やっと冷静に考えられるようになり、震災を伝える新聞記事や本、映画などを率先して見ているそうです。

〈親は震災を忘れたいから口に出したがらない。でも僕は自分のルーツを忘れたくても忘れられるわけもないので、前に進むには受け入れないといいますか...。変わってしまった街を見たくないけど、もう一度確かめたいと思い、歩いたりもしました〉。メールは次の一文でしめくくられていました 。〈この数年は毎年、東遊園地にも行っています。今年も今から行って参ります。〉。

18日昼、秋葉さんに電話しました。「神戸は自分が生まれた場所で大切なんだという気持ちから書きましたが、全然整理できていませんでした」と 申し訳なさそうな口調。とんでもない、10代の多感な時期を過ごした街や通い慣れた店への愛着を感じました。「以前は震災のことを尋ねられると 、適当に答えたりしてました。でも東日本大震災の後あたりから、向き合わなと気持ちが変わりました」と秋葉さん。続けてこう話してくれました。 「これからもいい意味で震災をずっと引きずっていこうと思います」


*写真は、阪神・淡路大震災の被災地から東北へ贈られるメッセージです

20年への日々が始まりました

19年を迎え、そして20年への日々が始まりました。昨晩に寄せていただいた声を紹介します。
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阪神淡路大震災から19年が経ち、あの時の凄まじい地震で多くの家屋が崩れ、6434人もの尊い命を失い、悲しみだけが残った記憶が今でも忘れられません。あの時を思い出すと勝手に涙が出て止まらないです。あの時の記憶を日本国民の中で風化させないように次世代に伝えて行くと兵庫県民の一人として心に誓いました。
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阪神淡路大震災の記憶はほとんどないのですが、今となって地震で言われ続けてきた意味が分かった気がします。どれだけ地震が恐ろしいか知りました。(高橋 みどり)
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箕面の築七十年の日本家屋の二階で寝ていた私は、驚いて起き上がった。しばらくするとテレビで速報が始まった。「何かできることはないですか?炊き出しなら出来ます」と問い合わせると、「まだ混乱しているので、受け入れ態勢がありません。もうちょっと後にお願いします」。二週間後と三週間後に、炊き出し部隊を結成し、指定された避難所へ。二回の炊き出しで、東灘区の合計800人の被災者の方にあったかい豚汁を提供できた。マンションが全壊し、倒れた食器棚とテーブルの間で助かった妊娠八カ月の知人がいた。「お腹の子供も、夫婦共に助かったから本当に良かった。」って気丈だった。本当の現実が襲ったのは1カ月を過ぎたあたりからだと思う。「新しい家を借りたら、壊れた家のローンと二重になる。保険は地震は免責だって。主人の会社が崩壊して、いつ再建するか解らないし。きつい」
神戸の街にあの時の傷跡は残っていない。一人一人の被災者の方達が、あの状態から本当に復興したのか。変わってしまった生活を、新しい生き方として受け入れて時間を積み上げているのか。私には分からない。私が知っているのは、仕事が続けられた人と職場を失った人とで、本当に大きな差があったこと。阪神・淡路大震災の日に福島を思う。福島から離れられない人の気持は想像できる。生まれ育った故郷だし、同じような条件での転職は難しい。家庭維持のために経済的基盤確保に責任を感じる父親。一方、家族や子供の健康維持を優先したい母親の気持ちも想像できる。
私たちに何ができるのか。被災者の方への想いを継続し、言葉にして、行動に移すこと。諦めずに問題提議を続けること。一人一人が「できることを、できるときに、できるだけ」しようと決心し、少しでも実現すること。時差もあり半日遅ればせながら、阪神・淡路大震災の犠牲者の方々に黙祷を捧げさせていただきます。また、いろいろな形で被災された方達の今が平穏で幸せでありますよう。(Tama Tanaka)
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水の重さに、電気の暖かさ、希薄だった近隣の方との語らい、警視庁のパトカーや各県が記された救急車、自衛隊のジープ、冷たいけど温かく感じたおにぎり、弁当。ボランティアの方に手助けしてもらったこと、深まった家族の絆。日常がどれだけありがたいか痛感した。感謝の日(いのうえ みすず)
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19年経っても鮮明に思い出せます。毎日怖かったけれど、日々人の温かさを感じることができました。( 4 10 3 。。。)


*写真は、伊丹市の昆陽池公園で、「あゆみ」を表現したろうそくの火です。

さまざまな声が寄せられました

寄せられた皆さんの声を紹介します。
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19年が経ちましたが、町並みはきれいになりましたが、そのことによって、人のつながりが薄くなりました。高齢化の波とともに、街の活気がなくなりつつあります。(たっか)
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当時1歳でしたが、この未曾有の大震災から立ち上がった神戸は私にとって誇りであり、愛すべき故郷です。確かに震災発生後に比べると人のつながりが希薄になっているかもしれませんが、私たちよりも下の生まれていなかった世代にもその思いは引き継がれていると思います。(RIO)
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今日は、大事な日。(くーるふぉるて)
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あれから19年、もう19年、でも、まだ19年。本当の意味の復興や亡くなられた方々の分までみんなの思いを残し教え教訓にして強い意志で明日も生きてゆく。それが生き残った者が唯一生きていく証になると思います。良い意味で忘れずに(lockon)
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そうですね。個人的にも当時住んでいたマンションが取り壊しの憂き目にあいましたので忘れることはできません。(しのし)
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19年か、悲しいかな、自分の中でもう当時の記憶がほとんど風化してしまっている。あの時どんな事があったか、食器が棚から落ちて割れてた位の記憶しかない。多分聞かれても良く思い出せないかも、今後も時間が経つほど記憶が薄れていくのかな。(kami)


*写真は、宝塚市にあるゆずり葉緑地公園にある鎮魂之碑です

避難所の演奏会

〈東京でドラマーをやっております〉という書き出しで始まるメールをいただきました。西宮市出身の辰巳浩之さん。16日夜、連絡をとりました。
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阪神・淡路大震災の発生時、辰巳さんは中学3年生。学校ではブラスアンサンブル部に所属し、友人とビッグバンドジャズの演奏に熱中していました。「みんなでやらへんか?」と顧問の先生に背中を押され、避難所になっていた神戸市東灘区の小学校に出向いたのは、震災から1カ月ぐらいたったころ。製麺業を営んでいた辰巳さんのお父さんがうどん玉を提供し、「演奏会&炊き出し」が始まりました。
「中学生だからあまり深刻に考えず、『楽しんでもらおうよ』という感覚でした」と辰巳さん。会場は夕暮れのグラウンド。グレンミラーの「イン・ザ・ムード」など数曲を演奏しました。「最前列のおばあちゃんが、顔をしわくちゃにして手拍子をおくってくれたんですよ」。演奏終了後、友達も「あのおばあちゃん、めっちゃ手たたいてたな」と喜んでいました。「こんなすばらしいことを、一生続けられたら幸せだろうなあ」と15歳の辰巳さんは漠然と思ったそうです。
大学卒業後、いったん就職しましたが、音楽から離れられなかったそうです。「今、演奏家として何とかやってこれているのも、あの時の体験があったからこそなのかもしれません」。東日本大震災の後、「何かできることはないか」ともんもんとしていた辰巳さんは民謡歌手の伊藤多喜雄さんに誘われ、毎年岩手県野田村で被災地支援の演奏活動をしているそうです。ドラムをたたきながらふっと思い浮かぶのは、19年も前のあのおばあちゃんの笑顔です。
15日夜に東京都内であったライブでは、故郷の西宮や神戸を思って書いた曲を披露し、観客に「17日で阪神・淡路大震災から19年です。忘れないでください」と呼びかけたそうです。


*写真は、防災学習の一環として、小学校で開かれた炊き出しです

「神戸は、美しくて、たくましい」

皆さんから寄せられた思いを紹介します。「これまであまり振り返ることはありませんでしたが、思い切って書いてみました」という方もいました。
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私は、まだ2歳という記憶にも残らない時期でしたが、あの日のことは、親や、学校の授業で話を聞き、頭にイメージするたびに本当に恐ろしいことが起きていたんだ。と感じました。2歳であってもぼんやりと唯一記憶に残っているのは水も電気も使えない中、親がタンクの大きさのゴミ箱に火を炊いてやかんでお湯を入れてくれたあったかいお風呂に入ったことです。今では考えられないほど当たり前にお湯が使えて電気も使えて...。真冬の中、父も母も必死にあったかくなるように、私のことを考えてくれていたんだな、とおもいます。この1・17という日に必ず思うのは、この日を忘れないこと。これからの世代にこの出来事を受け継いでいくことです。こんなに大変なことがあったこと。生きるためにみんなが力を合わせていまのこの復興した神戸があること。それを知ってほしい。災害に私たちは勝てないし、いつ起きるかわからない。だからこそ、知っておきたい過去であってほしいし、忘れてはいけないとおもいます。守れるものもたくさんあるとおもいます。一日一日が大切であることがわかるとおもいます。「しあわせ運べるように」を小学校からずっと歌ってきましたが、歌詞の通り、地震にも負けない強い心を持って毎日を大切に生きていこうとおもいます。
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壊滅、そんな光景を子供の時にみた。今、目の前にある神戸は・・・。築く、生きるとは、築くことなんだ、と、大人になって実感している。神戸は、美しくて、たくましい。そんな大人として生きていきたい。(さり♡)
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震災当時、三歳だった私は今まで117を特別意識する事がありませんでした。ですが、去年の1月17日になんとなく東遊園地を訪れた際、初めて震災をリアルに感じました。それから一年、何ができるのかを考え、地元に就職する道を選びました。(oɯoʇ)
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昨年のつどいに参加した時の写真をベースにした五行歌を送ります。
こんなにも離れている/今の住み処から/あの日への念(おも)いが/連れてきてくれた/祈りの広場
離れて暮らしていても、1・17を忘れることはできません。(高木直子)


*写真は、カトリックたかとり教会のキリスト像です

「震災の日を塗り替えました」

あの日から19年になりました。当時11歳で神戸市東灘区にお住まいだったという方から、「19年を迎え思うこと」と題した長いメールをいただきました。紹介させていただきます。
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11歳の自分は、最初の縦揺れに身体が浮き上がる感覚で目が覚めました。母に覆いかぶさられ、泣き叫んでいました。隣接するホームセンターは一階が潰れ、家族の怒号にも似た叫び声に恐怖を感じたのを覚えています。家族ですぐに近くの公園へ避難し、大工の父は自宅周辺で埋れた人を助けに行きました。一階が潰れたご近所さんでは、おじさんが助け出されましたが、間に合いませんでした。奥さんを守るため、とっさに覆いかぶさったと聞きました。小学5年の私には「死」が分かりませんでした。数カ月後、その奥さんはご主人を追うように、近所のマンションから身を投げました。せっかく命が助かったのに、死を選ぶほどの苦しみ、悲しみがあるなどその時の自分には理解できませんでした。
小学校へは避難せず、自宅前の駐車場に父と祖父が建てたビニールシートと木材の掘っ建て小屋で暮らしました。毎日、いろんな経験をしました。自衛隊の人と遊んだり救援物資をもらいに並んだり。理不尽なこともありました。ある日、取材している大人に「かわいそうに...」と言われたのです。そのことを祖父に告げると、「かわいそうやない、大変なだけやと教えたりぃ」と憤っていました。今でも心に残っています。
全壊した自宅は骨組みだけで手付かずのまま。はたから見ればまるでお化け屋敷。「1・17」という日が嫌いだった私は、震災から17年目、「震災の日」を「結婚記念日」に塗り替えました。今は自宅に両親と住めるよう試行錯誤する日々です。仕事では、震災チャリティーイベントの音楽フェスに携わらせてもらい、今年で10年目を迎えます。昨年は募金先に自らの意見を汲んでもらい、東北の学校に寄付をすることができました。
19年前のあの日がなければ、今の自分はないと思います。身内が亡くなったわけでもありません。もっと大変な目にあった方が大勢いいます。そのためでしょうか、大人になって震災の話をすることを少しためらっていた自分もいます。今思えば「怖かった」と言ってはいけないような気がしていたのかもしれません。被災した自分は間違いなくトラウマを持ち、そのトラウマは他人と比べるものではないと気付いてから、なんだか生きやすくなったように思えます。
大好きな神戸で、この先の1月17日を特別な日ではなく、いつもどおり過ごせる生活ができればいいなと思います。
    ■
長い文章を書いていただきありがとうございます。何度も読み返させていただきました。〈いいことも悪いこともひっくるめてこの19年があって今の自分がいる。〉勝手ながら、メールの主の胸中をこんな風に想像させていただきました。「トラウマは他人と比べるものではない」と気づくまで、相当苦しまれたのではないでしょうか。でも、それを潜り抜けたから語れる最後の一文を読んで、逆にこちらが励まされ、勇気づけられました。


*写真は、神戸市中央区の東遊園地で、「1・17希望の灯り」を分灯する中学生たちです

「三連休明けの朝でしたね」

寄せられた声を紹介します。明日の朝も寒くなりそうです。
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震災で被害に会った方々、中でも年金暮らしの方々のくらしは大変です。消費税も上がり、年金は受取額が減ることはあっても増えることはありません。企業で働く現役世代の方々とは全く違います。高齢者の暮らしのことを行政はもっと考えてほしいと思います。
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もう19年とは信じられません。震災復興に身を粉にして支援いただいた方には頭が下がる思いです。東日本大震災でもいえることですが、国の対応に怒りを覚えます。「日本再生は復興なくしてはありえない」と言いながら口先だけ。本気で日本再生を考えてくれる政治家が現れてほしいと思います。
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東日本の大震災があり、被害は違いますが同じ被災者なので、歴史的被害を後世に伝え続けていかなければならないと思ってます。忘れてはいけない出来事です。震災を知らない若者が増えてきてるので、過去のことで済ませないで、今後の起こりうることとして埋もれさせないでほしい。
   ■
私は姫路で仕事をしています。震災の前年に得意先の問屋が倒産し急遽、姫路に営業所を出しました。翌年の1月17日。岡山県倉敷市にある学生服の製造メーカーの本社から姫路営業所に行くために早起きして着替えをしていました。その瞬間の揺れを経験しましたが、あんな大震災が発生したとは思えず、車で姫路に向かいました。途中で情報が徐々に入り、4時間以上かかって姫路に着きました。神戸や淡路島には得意先もあり大変でした。でも今思えば、いろいろなことで最善を考え行動していたのだと思います。東日本大震災に関してもその教訓は生かされていると思います(放射能汚染だけは想定外です)。1月17日という日が、みんなが今できる最善の行動ができることを考える日であればと思います。
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想像を絶する揺れを体験した後...暮れから震災報道を見たり聞いたりして恐怖が蘇り、眠れなくなっていって16日は一睡も出来ませんでした。年が明けても何とか眠れるようになったのは10年以上たってから。心の傷はかさぶたで覆われても大きな災害が起きると今も痛みます。(Keiko)
   ■
いつも思います。あの日の朝が三連休明けの気だるい平日の始まりだったらと。忘れることなく起こるかもしれない南海地震にそなえなければらと思います。祈りを心から捧げます。平穏な1年でありますように(y okapy)


*写真は、神戸市中央区にある阪神高速の橋脚です

コラム「リセットが必要なとき」

17日が近づいてきました。引き続きいただいた声を紹介します。当日の神戸は曇り時々晴れの予報です。
    ■
今でも鮮明に記憶してます。当時、大阪に住んでおりましたが、親戚が神戸市内に居たので半日かけて行きました。JRが芦屋まで動いていて、そこからバスで神戸市へ、途中の街並みが現実かと思うくらいに崩壊してて地獄でした。19年風化させないという思いです。(みやちゃん☆)
    ■
震災のときにお腹にいた息子も19才になります。水道もガスも止まっていた中、無事に出産できたことに感謝しています。大変な中、病院の先生やスタッフのみなさんによくしていただいたことを毎年思い出し胸がいっぱいになります。(みゆき☆미유키♡ジェジュンに会いた杉♡)
    ■
私は神戸生まれではありませんが、神戸に先祖のお墓があります。ちょうど、娘を産んで1カ月くらいたったとき、その頃住んでいた関東では地震続きの毎日でした。そんなとき、朝テレビをつけると、「ドラマなの?」そんな感じの画像が。神戸に地震? お墓は? それどころの映像ではなかったですね。心が苦しくなるくらいつらかったです。でも街はきれいになりました。つらさを乗り越えた強さも感じます。神戸は永遠です。ずっとずっと。
    ■
電子版「神戸新聞NEXT(ネクスト)」に毎月2回、「精神科医は見た」と題して、神戸市東灘区の精神科医、松井律子さんがコラムを執筆しています。普段は自由に筆を振るってもらうのですが、15日にアップした原稿については、「震災のことで」とこちらからお願いしました。コラムの副題は「リセットが必要なとき」。震災を思い出す回数が減ることは忘却とは違うこと、喪失したものにずっと心を奪われていては人は生きていくことができないということ、何かの形にして保存することも記憶のひとつの形であるということ。大切な人を亡くした悲しみや苦しみとどう付き合っていけばいいのか、松井さんからの"処方箋"のような文章です。一人でも多くの方に読んでほしいと思います。

*ネクストの医療コーナーにある「精神科医は見た」に掲載しています。コラムの感想もぜひお寄せください。

コラム「精神科医は見た リセットが必要なとき」


*写真は、宝塚市内の石積みオブジェ「生」にメッセージを書き込む人たちです。

連載「借上復興住宅 20年目の漂流」が始まりました

阪神・淡路大震災で自宅を失った高齢者や低所得者に兵庫県や被災5市が用意した「借上復興公営住宅」が入居から20年で返還期限を迎えます。今も約150団地に4700世帯が暮らしますが、最も早い西宮市は来年秋、神戸市も2年後から退去を求めるとのことです。が、入居の際、行政が20年後の退去を丁寧に説明した形跡はありません。
地震で家を失い、仮設住宅から移り、終のすみかと信じた暮らしがまた揺らいでいます。
この切実な問題を記者が追った連載「借上復興住宅 20年目の漂流」が11日付朝刊で始まりました。
電子版「神戸新聞NEXT」にも掲載しています。ぜひご覧ください。

連載「借上復興住宅 20年目の漂流」


*写真は、県と神戸市合わせて約570戸の借り上げ復興住宅が入る団地

震災19年関連行事

1月4日のブログで紹介した、「3月に高校を卒業」という方に連絡しました。18歳の男子高校生。震災を直接知らない彼に、親御さんは当時のことをよく話してくれるそうです。毎年1月17日が近づくと、当時のことが話題に上るとか。「東日本大震災が起きた時、親に『被災地に行ってみたい』と言ったんです」。親御さんの反応は?「はい、『何言うてるんや』て一蹴されました」。その後、応急手当の資格を取得するなど、ボランティアに役立ちそうなことを身につけたそうです。「最近、東日本の被災地のニュースが少ないですよね。大学に入ったら、できる範囲でボランティアをやりたいです」。そう話す彼の志望は教育系の学部。「17日はどこかに催しに?」と軽い気持ちで尋ねると、「...その日はセンター試験の前日で...」。こちらこそ、気が回らない質問ですみません。大事な試験、十分に力が発揮できることをお祈りしています。
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電子版「神戸新聞NEXT(ネクスト)」の震災特集ページに、阪神・淡路大震災19年の関連行事の主なものをアップしました。今年も17日前後に、各地で震災関連の行事が開かれます。犠牲になった方を追悼するものや防災に関する催しなど、内容は多岐にわたります。行事の日程、内容などは変更されることがあります。また定員が設けられている催しもありますので、事前にご確認ください。

震災19年関連行事
■ 追悼・展示
■ 催し・コンサート
■ シンポジウム・集い



*東日本大震災の被災地を描いた巨大絵画の前で演奏会。1月4日にデザイン・クリエイティブセンター神戸で開かれました。

「17日は東遊園地にいます」

皆さんから寄せられた声を紹介します。
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当時岩手県宮古市で仕事をしてました。川村龍一さんのラジオ(MBS)を通勤の車で聞きつつ、自分に何ができるのだろうと考えてました。その年の12月、修学旅行で三田回りで更地の神戸を訪れたのが、3年前の震災につながるとは。彼らも36歳。思うところが強いでしょう。神戸入りできるかどうか、情報がなかったですが「ぜひ現場を見て感じてほしい」という話を聞き、バス1台なら大丈夫と聞き神戸に向かったのです。バス運転手も「震災後初めて神戸に向かう」と言い、ブルーシート多数、観光客がほとんどいない異人館を見て、正直戸惑いました(番頭)
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去年、あの震災以来初めて神戸から離れました。しかしながら、思い返すのは19年前のこと。神戸の街で助け合いを覚えた私たち。当時は小学生で親に守られていた私ではありますが、大人になった今、何かが起きたとき、果たして何ができるのか...考えてもピンとこないのです。それだけに、当時私たちは沢山の方に支えていただいたと痛感しております。心の傷はなかなか癒えません。忘れたくても忘れられないのです、あの日々は今も脳裏に焼き付いています。それでも生きていかなくてはならない、ならばせめて語り継いでいこうと思います。「まだ」や「もう」という言葉でひとくくりにできる19年ではありませんでした、様々なことが神戸でありました。そのことを風化せず、しっかりと生きていこうと思っている日々です。
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わたしは神戸市民ではありませんが、神戸のまちが大好きです。その思いが、「神戸の観光案内のブログ」に集約され、日々書いています。関心の高いのは、観光旅行のブログということもあり、やはり「神戸ルミナリエ」です。問題点として神戸ルミナリエに限って申し上げますが、わたしは来場者からひとり100円から数百円を入場料として徴収するのが、企業協賛金の増加が見込めない現状では、ベストではないかと考えています。仙台の光のページェントのように、募金や寄付金に積極的な企業に売り込みをはかり、スポンサーになった企業にとっても儲けが協賛金を上回るように、とは思いませんが、企業の立場になっても商業的メリットがあるように、イルミネーション全体を運営する必要が、神戸ルミナリエの運営主体にもあるのではないでしょうか。
今年の1月17日、阪神淡路大震災から19年の日は、わたしは東遊園地にいます。神戸に行く前は、地震の日の前日夕方から開催されている、伊丹市の昆陽池公園の震災犠牲者追悼行事に、毎年足を運んでいます。伊丹では、若いひとや学生さんがとても多く、また行事の中心的になってイベント全体と来場者をサポートしてくれています。昆陽池公園にはあって、東遊園地にはないものに気がつきました。年々思うことは、神戸の東遊園地では「来場者の高齢化」です。
震災の風化への危惧もそうですが、先が暗い話ばかりではありません。来年2015年1月17日は、10年ぶりの土曜日の1・17で、初めての方や若い方、遠方の方などの多くの来場が見込めるということです。また、再来年の1月17日は、日曜日です。阪神・淡路大震災の教訓を若い人々につたえるのには、土曜、日曜などに交流がうまれ、インターネットやスマートフォンでは伝えきれない、人と人との絆を感じる機会だと考えています。
 
  *写真は、多くの建物が壊滅状態になった芦屋市津知町。1995年1月18日撮影です。

「当時のままの家が...」

年末年始の休暇を終え、今日が仕事始めの方も多いと思います。震災ブログで皆さんにお尋ねしている「19年という年月について何を思いますか」。お寄せいただいた声を紹介します。
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目が覚めた時、家は「ゆっさゆっさ」という音と共に激しく揺さぶられ始めて...家の四方を大型建築機材でゆすぶられているようだった。バキバキという音は後で角部屋だった私の部屋の通し柱が折れる音だったと知った。もう少し揺れていたら床が抜けてベッドごと兄の上に...(Keiko)
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三木市に住んでいるので、私たち家族は被害はほとんどなかったのですが、垂水に泊まりで復旧工事に参加し、寝ていても何度も繰り返す大きな余震、完全に破壊された町を見た者として、県、市、個人が防災対策を実施しているようですが、まだまだ危険な場所が多く残っていると思います。より安全な街を作るため施策を継続するべきと思います。
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神戸市長田区にお住まいという女性から、<近所には雨風にさらされながらも当時のままの壊れかけの家が残っていて...>というメールをいただきました。<雑草が生えている空き地があり何年と経っても忘れることはできません>とも。気になってお電話しました。
あの時刻は、ご主人に朝ごはんを用意し、「気分が悪い」と起きてきた次男と台所で二言三言しゃべっていたそうです。下から突き上げられるような衝撃の後に、「ゴーッ」という地鳴りのような音と揺れ。「次男の部屋はめちゃくちゃ。もし寝ていたら...と思うとぞっとします」。近くの小学校に2週間避難し、屋根瓦をふきなおしたのは3カ月後だったそうです。「17日が来ると、あの時刻のことを思い出しますね。お宅は大丈夫でした?」。はい、当時住んでいた生田川近くのアパートは一部損壊で、本棚がひっくり返りましたが、大事には至りませんでした。歩いて出勤する途中で、道をふさぐように倒壊したビルに胆をつぶしたのを今も覚えています。
女性は震災後、怖がりになってしまったそうです。近くの幹線道路をトラックが猛スピードで走る音で、あの地鳴りを思い出し、ドキッとするそうです。「近所の家が減って隙間ができたから余計そう感じるのかもしれません」。震災後、商売を再開できたお店もあれば、更地にしてそのままの場所もあるそうです。
<人間の力ではどうしようもない、自然というのは怖いけれど、でも片方で自然の恵みを受け、それに感謝し、共存しながら生きているのですね>と、女性は書いてくださいました。おっしゃる通りです。微力な人間の力で何ができるのか、考え続けなければと思いました。


*写真は1995年1月下旬撮影。全壊した神戸新聞会館です。

皆さんの声を紹介します

おくればせながら、あけましておめでとうございます。年末年始にいただいた皆さんからの声を紹介します。
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震災を身をもって経験していないですが、親などから伝え聞いたことを後の世代の人に伝えていきたいです。19年という長い年月の間に、復興も完了し、また東日本で震災があり、そして復興途中ですが、それぞれの地震で経験したことを次のときに役立てないといけないと思います。僕は3月に高校を卒業するので、積極的に日ごろからボランティア活動を行っていき、南海トラフ地震などが起こった際には被災地で活動していきたいです。
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私はもう19年と思っています。住んでる家は全壊、家を建て替え、自分として全体的には落ち着いてきた感です 。
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19年は息子と私の成長の19年です。
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直接被害を受けなかった人にとっては、「もう19年」と感じる。年齢のせいもあるが1年が速い。大きな人的、物的被害を受けた人には、震災前の日々の生活と比べ、長く感じるのかもしれない。これまでの人生を省みて思うことは、「この国では、国政や行政に期待したり、頼っていては、大抵泣きを見る」ということだ。自分の運命の中で、自分の考え、信ずる方法で自分を守らなければならないということだと痛感する。
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尼崎在住ですが、当時、私もタンスの下敷きになりました。家は一部損壊でした。神戸と比べれば、被害は少なかったですが、もう19年が本音です。人間って、事件や事故、災害が起こってしばらくは、覚えていますが、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で現状しか見えなくなってしまいます。すぐそこに迫りくる、南海トラフ地震でさえ...ですよね。1月17日、いろんな催しが報道され、「あっ、そうだったんだ」と、感じる人は多いのではないでしょうか。
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私はあえて「まだ」とか「もう」はつけません。年月の19年が何を求めるのか。神戸で被災し、今は明石市に居住しています。マンション住まいから壁を破り、地域の方々と交流を深めようと地域の高年クラブに参加させてもらいました。とてもよい方達ばかりです。だが、神戸、淡路大震災のことはまったく話題にはなりません。やはり一抹の寂しさを感じないと言えばウソになります。被災後しばらく親戚に身を寄せていましたが、長く続くはずがありません。なけなしのお金をはたき、初老の身で不足分のローンを組みました。やっと返済を終えました。今も貧困の生活を続けています。もう喜寿を迎える年になりました。話題にはしませんが、家庭と暮らしは復興したとはいえません。「神戸は復興した」といわれますが、そこに住む住民は全てが復興したとはいえません。どんなに都心がきれいになっても被災者の心はきれいにはなりません。昨今「自助」「共助」がいわれていますが、「公助」こそ「今でしょ」といいたい。これが19年の私の気持ちです。


たくさんの声をありがとうございます。精神科医の松井先生も話していたように、被災後の時間の経過は、その人によってさまざまです。「ローンの返済を終えました...」と記された方は、本当に大変な19年だったと思います。そして同じように苦労をされた方が、阪神・淡路大震災の被災地に大勢いることを、最初に紹介した男子高校生のような世代にも知ってほしいと思います。
*写真は、東日本大震災の被災地の仮設住宅など送るシクラメンを運び出す但馬農業高校の生徒です

寄せられた声を紹介します

阪神・淡路大震災から19年になります。皆さんにとってこの年月はどんな意味を持っていますか。そんな問いかけに寄せられたメールの一部を紹介します。
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私はもう19年と思っています。住んでる家は全壊、家を建て替え、自分として全体的には落ち着いてきた感です。
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長男の結婚式から19年でもあります。1月15日に式をあげ、16日に新婚旅行に出発しました。翌日に大震災が来ようとは夢にも思わず、私も関空まで見送りに行きました。翌朝、あの忌まわしい大地震。長男が寝起きしていた部屋は本立てが倒れガラスは粉々に。居たら大変なことになっていただろうと、今でも不幸中の幸いと胸なでおろしたものです。もちろん我が家は大破、玄関ドアは開かず体当たりで外へ、出火こそしなかったものの長田方面からの火が迫ってきそうな勢いでした。夫婦二人で親戚を頼ったのが昨日のことのようです。最近、「自助」「共助」が強調され「公助」が後にやられているように思えます。「住専より被災者へ」と国会へも行きましたが、むなしさだけが残ったものです。東北、福島の被災者の方々の心労はよく解ります。被災住民への「公助」は今もあまり変わっていないように思います。困っている国民に政治が手を差し伸べる、そんな時代が来るように切望しています。
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「もう19年」「まだ19年」「やっと19年」等々、経験した人それぞれに違いはあるだろう。私には、どれも当てはまるように感じる。とにかく、大阪の職場への通勤手段が途絶え、震災後は毎日短区間ながらも各鉄道が、少しずつ復旧区間が拡大されてくるニュースを神戸新聞で知り、毎日「喜びの復旧」区間が増加する。これがたまらなく嬉しいことであった。徒歩連絡で被害甚大な箇所を何回となく歩き、全壊家屋跡に、「〇〇ここに眠る」「××死す。連絡先は...」の立札が目に入り、思わず手を合わせたものだった。東日本大震災が発生し、津波・原発問題が全国的な話題となり、阪神・淡路大震災の報道が減少、日本中が東日本大震災に目を向ける中、われわれの辛い体験が、忘却の彼方となってしまったようで、なんとも言えない心境だ。


*写真は1995年5月撮影。途中の階が押しつぶされた神戸市役所の前で、ポートアイランドへ向かう代替バスに長い列ができていました

たこ揚げ

記事タイトルに違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。震災と一見縁遠そうなタイトルにしたのは、数年前に掲載されたこの記事を紹介したかったからです。

〈1995年1月17日、当時20歳になろうとしていた私は、阪神・淡路大震災で被災した。大阪の自宅の中はむちゃくちゃになり...〉で始まる文章は、2011年4月15日の神戸新聞朝刊に掲載されたもので、筆者は北海道大准教授の中島岳志さんです。「東日本大震災/喪失と新たな出会いと」という見出しがついています。

阪神・淡路大震災から約1カ月後、中島さんは神戸の街に行きます。見慣れた風景が消え、ぼうぜんとなって空き地の隅に座っている中島さんの目に、たこあげをしているおじいさんが目に入ります。空を見上げながら無心であげています。疑問に思った中島さんが尋ねると、おじいさんは震災で奥さんを亡くしたことを告げ、こう言います。

「なんかこうやってたこをあげとると、手を握ってるかんじがするねん」

  
中島さんはこの出来事をもとに、こう書いています。〈大切な人の死は、喪失であると同時に新たな出会いでもある。死は決して絶望だけではない。死者とのコミュニケーションを通じて、人間は新しい人生を生きることができる。(中略)死者と一緒に、僕たちは生きているのだ。〉

阪神・淡路の被災地で、そんな思いで、たこ揚げをしている人がいるかもしれません。

震災は今も鮮明ですか【エピソードをお寄せください】

年が明けると、阪神・淡路大震災から19年になります。皆さんの中で、あの震災は今も鮮明でしょうか。これからの時期、何を思い出しますか。電子版「神戸新聞NEXT(ネクスト)」で、心をテーマにコラムを連載している神戸市東灘区の精神科医、松井律子さんから「心の回復」について、こんな話をうかがいました。

松井さんが診る患者さんの中には震災を経験した人がいます。ある患者さんは子どもさんを亡くしました。気丈に振る舞い乗り越えたように見えましたが、その後配偶者を亡くし、その寂しさや不安からでしょうか、震災から15年以上たってから通院するようになりました。「震災の影響が長期的に響いたケースや、被災者が高齢化して不安が強くなったケースから、病気になる人が出てくる時期がこれからなのかもしれません」と松井さんは言います。19年近い時間の中で、再建に思わぬ差がついてしまうこともあります。そんな地域では、気まずくならないようあえて震災の話題に触れないことがあるそうです。被害が激しかった地域では、住民が入れ替わり、震災前から住んでいる人が家族を失ったつらさを共有できないこともあります。先の患者さんもその一人でした。何とか生活再建できた人は、普段は震災が意識に上ることは少ないそうです。「『重い話題はしんどい』『「過去のことにしておこう』と考えるのも自然なことです」と松井さんは言います。

「『忘却するから生きていける』という面にも目を向けてはどうでしょうか。いつまでも過去のつらい記憶が鮮明であり続けたら、苦しすぎます」と松井さんは言います。心の傷や記憶が消えてしまうことはないでしょうが、普段はそれを見ずに生きられるようになり、必要な時だけ意識に出てきてプラスに生かせるようになる。それが理想的な心の回復なのだそうです。




間もなく大晦日。そしてお正月。神戸新聞の紙面にも阪神・淡路大震災の関連記事や連載が増えていきます。もう19年でしょうか。まだ19年でしょうか。19年という年月について、皆さんは何を思いますか。お気持ちだけでも構いません。社会部ウェブ編集室(webhensyu@kobe-np.co.jp)へメールでお寄せください。

社会部ウェブ編集室
webhensyu@kobe-np.co.jp


寄せられたお話を神戸新聞や電子版「神戸新聞NEXT」でご紹介させていただくことがあります。あらためて記者がお話を聞かせていただく場合もありますので、お名前と連絡先(メールアドレス)をお書きください。掲載時に匿名をご希望の方はその旨、お書きください。お話をご紹介させていただく際は、内容を抜粋・編集したり、表現を修正したりすることがありますので、ご了承ください。

はじめまして

神戸新聞社編集局の震災ブログにお越しいただき、ありがとうございます。阪神・淡路大震災は2014年1月17日、発生から19年になります。普段は胸の奥にそっとしまっている記憶が、この時期になると、何かの拍子によみがえる方も多いと思います。

このブログでは、記者の思い、兵庫県内各地で行われる関連行事などを期間限定で紹介します。19年という年月について、皆さんからご意見を募っていますので、気軽にお寄せください。

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このサイトについて

阪神・淡路大震災から2014年1月17日で19年になります。神戸新聞は「刻む震災19年」をモチーフに、被災地の現状や課題について取材を進めています。 新聞記事や追悼イベントなどの情報を掲載する期間限定のブログです。


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